Sunday 6 March 2011

 主なるイエスキリスト

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。”
          ヨハネによる福音書3章16節
       主なるイエスキリスト

 それは私が14歳の時のことです。私は友人と一緒に校長室の前まで行き、そのドアをノックしました。
「はい、どうぞ。どんな悪さをしたんだね?どの先生に言われてここに来たんだい?」
 校長先生が尋ねます。
「校長先生、僕は悪いことをしてここに来たわけではありません。先生にお話があるんです」
 私は言いました。
「そうか。ではこちらに来なさい」
9年生(日本の学校では中学3年生に相当)にこのように訪ねて来られ、校長先生の口調にはいく分か面白がっているような様子が感じられました。
私は言いました。
「校長先生、僕はクリスチャンになって、人生が変えられたんです。ですから何よりもまず第一に、僕がクリスチャンになる前に迷惑をおかけした先生方全員に謝りたいと思います。そして次に、お昼休みに教室を一部屋、使うことを許可してほしいんです。そうすればそこで、ほかのみんなにイエス様のことを教えてあげるクリスチャン・ミーティングを始めることができますし、彼らにとっても人生が変えられるいいチャンスになります」

校長先生はしばらく考えてからこう言いました。
「それはだめだ。誰しも自分の宗教というものを持っているものだからね。もし私が、君の宗教のための集会を認めれば、保護者の中には快く思わない人もいるだろうし、それが分裂を招くきっかけにもなりかねない。それならばむしろ、学校には何の宗教もない方がいいだろう」
私は、校長先生が話を聞いてくれたことに礼を言い、握手をしてからその場を後にしました。 
私はクリスチャンの友人たちのところへ行き、校長先生の話を説明しました。
「でも今晩、校長先生が眠っている間に、主が校長先生の気持ちを変えてくれるように、みんなで祈ろうよ」
 私はそう提案しました。

 そしてその夜、眠りに就く前に私は、みんなでそうしようと決めた通りに祈りました。
「主よ、校長先生の気持ちを変えてください、先生が眠っているうちに」
 そして電気を消して、寝ました。

 それからしばらして、真夜中に私は目を覚ましました。私の寝室が、光で満たされています。
(この光はどこから入ってくるんだろう)
不思議に思い、天井の方を見上げてみましたが、電球がついているわけでもありません。
 次に下の方に目をやると、イエス様がベッドの端に座っておられるのが見えました。その服や肌が輝き、部屋中を明るく照らしていました。

 気がつくと、私はいつの間にかベッドから抜け出していました。パジャマだけになっても、私は夜の寒さをまったく感じませんでした。そして、イエス様のひざの上に座ると、イエス様は私を抱きかかえてくれました。私はそのお顔を見上げました。
「ああ…イエス様なんだ」
私は心から実感しました。

イエス様の手には、くぎを打たれた時の穴がありました。いまだ傷が開いたままで、血がついています。その傷を見た時、私は愛を感じました。イエス様は私のために死んでくださったのです。下の方を見ると、足には、くぎを打たれた時の穴がありました。サンダルはほこりだらけで、まるでさっきまで通りを歩き回っていたかのようでした。白くて丈の長い服を着ておられましたが、その服もきれいとはいえません。髪の毛はやや長めで、あごひげを生やしています。

 イエス様の顔を見て、私は心の中でこう思いました。
(なんだ、あなたはあんまりハンサムじゃないんだね、イエス様!)
するとイエス様がほほ笑みました。イエス様には、私が心の中で思っていることすべてがお分かりだったのです。イエス様は怒ったりせずに、むしろそれを楽しんでいるご様子でした。

 そして、次にイエス様の目をのぞきこんだ時、私はこう感じたことを今も覚えています。
(ああ…今まで見たことのある顔の中で、一番美しい顔だ)
 イエス様の目は、愛をいっぱいにたたえた海のようでした。

 みなさんは海や湖で、透明な水をのぞきこんだことがありますか?――あまりにも透明なので、かなりの深さがあるにもかかわらず、手を伸ばせばまるで、水底に触れることができるのではないかと思ってしまうくらい透明な水を。イエス様の目はまさにそのようでした。まるで何マイルも先が見えるかのように透明なのですが、そこに見えるものは愛なのです。イエス様の目をじっと見つめると、私には、完全さ、優しさ、聖(きよ)さ、愛、が見えました。

 イエス様のおそばにいることは、本当に素晴らしい経験でした。しかもイエス様も、私と一緒にいることができて、私以上に喜んでおられるご様子だったのです!

 イエス様が実際にお話しになった内容とは別にして、イエス様の目は多くのことを私に語ってくれました。すべてを書き出せば、それだけで分厚い本が書けることでしょう。

 イエス様の目を見ていると、このお方は、天のお父様から決して目をそらすことがない、ということが分かりました。イエス様は、天のお父様から私を訪ねる許可をいただけて喜んでいる様子でしたが、天のお父様のご意志以上にここに一瞬でも長くいてしまうことがないよう、注意しておられるのが伝わってきます。

 また、イエス様が神様のご意志を喜んでおられるのも分かりました。イエス様はまるで、「天のお父様、前回、あなたのご意志に従いましたら、その結果は本当に良いものでした。――だから今回もまた、私はあなたのご意志に従いたくて仕方がないのです!」と思われているかのようでした。

 もう一つ、私がその目から見て取れたことは、イエス様は、ご自分を拒む者たちさえも愛し続けておられる、ということです。イエス様は決してあきらめることなく、しかし愛をもって、ご自分を拒絶する者たちにさえ手を差し伸べてくださっているのです。
(もし僕が学校でイエス様のことを伝えようとするなら、僕もこういうふうにならなくてはならないんだ)
そういう思いが私の心の中にわいてきました。
するとイエス様が言いました。
「それで――君は学校で集会活動を始めようとしているんだね?」
「うん」


私はそう答え、そしてそれについて話し合いました。

 翌日、私の友人が学校のグラウンドを歩いていると、校長先生の姿が見えました。校長先生は、友人がそこにいるのを見つけると、土手の階段を駆け下りてきて、こう言いました。
「君たちを探してあちこち歩き回ったよ。君を見つけられて良かった。君たちが始めようとしている集会のことだが――。どうしたことか、一晩のうちに考えが変わってね。今は君たちにその集会活動をぜひやって欲しいと思う。どの教室を使いたいんだい?」

 そういうわけで、私は学校で一番良い教室を選びました。カーペット敷きで、天井にはシーリング・ファン付き、視聴覚機材も揃っています。私たちは一週間に一度、昼休みにクリスチャン・ミーティングを始めました。そこで、たくさんの生徒たちがイエス様を信じ、受け入れました。癒された生徒たちもいました。そして多くの生徒が聖霊に満たされたのです。時には100人を超える生徒が集まったこともありました。そのうちの何人かは、信仰の道を歩み続け、数年後に宣教師となりました。

 神様からの助けにより、私はその後の中学、高校生活において、誰にも妨げられることなく、毎日イエス様のことを伝道することができました。

 これは、当時、私が心を込めて書いた詩です。

私の救い主イエス様
生けるみことばイエス様
私の助け手イエス様
心からあなたを愛します

 あなたもまた、救われ、永遠の命を得ることができるのです。

 主なるイエス様に、その尊い血によって救ってくださるようお願いしてください。そしてあなたの霊の中へ入って来られるようお願いしてください。

 イエス様はあなたの祈りを聞いてくださることでしょう!


                      ジョン・エドワーズ

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